君を護ると誓えばこそ
夏の暑さがようやく和らいできたかと思うと、冬の匂いが駆け足で近づいてくる。
――秋が、とても短くなりましたね。
そう審神者が呟いたとおり、秋はするりと指と指の隙間から逃げて行ってしまうのだ。
暑い時期が長くなったからだろうか。より一層、秋の尊さを感じる数年ではあるが。
「……、……」
近侍の鶴丸は、僅かな手の動きで数名の刀剣男士たちとやり取りをし、そして頷き合う。ごちそうさまでした、と朝餉を終えた男士たちがめいめい広間を抜けてゆくのに合わせ、鶴丸とやり取りをした男士たちもパラパラと不自然にならぬように広間を出ていった。
「ごちそーさん。うまかったぜ」
鶴丸もまた、箸を置いて。厨当番の男士たちに声をかける。そして。
「先行くぜ、緋穂(ひすい)」
まだ食べ終わるまでに時間のかかりそうな女審神者――緋穂に声をかけて立ち上がった。
「はい、お先にどうぞ」
彼女は艷やかな長い黒髪をさらりと揺らし、漆黒の瞳を細めて微笑む。どうやら鶴丸たちのやり取りには気がついていないようだ。
厨当番の者たちに料理の説明を受けたり、声をかけてきた男士たちの話へと箸を止めて耳を傾ける彼女の食事は、時間がかかる。食べ方は礼儀作法のお手本をしっかりなぞっている美しさであるが、自分より他人のことを優先するきらいがあるため、話を聞く時はしっかりと箸を止めるからだ。
(ま、そのおかげで時間が取れるっていうわけだが)
鶴丸は心の中でそう呟いて、広間をあとにした。
* * *
「よ、待たせたな」
広間を出た鶴丸が向かったのは、本殿から渡殿(わたどの)で繋がっている別棟の一室。男士たちの居住区画の外れであった。
この本丸は、平安時代の寝殿造を模した建物が主となっていて。ただしプライバシーへの配慮か、襖や障子などで区切られている場所も多い。
建物自体には近代的なシステムが張り巡らされており、空調の調整などは緋穂の喚び出すタッチパネルで制御が可能だ。
「おや、数珠丸さんがまだだね」
「鶴丸殿と一緒ではなかったのですか?」
先に到着していた石切丸と太郎太刀が声を上げる。どうやらふたりは、数珠丸と鶴丸が共に来るのでは、と思っていたようで。
「あ~……数珠丸はなぁ……待ちきれなかったみたいだぜ?」
くつくつと笑って鶴丸が懐から取り出したのは、和紙を折りたたんだ書状。
「数珠丸はひとりで行ったってことか?」
「御名答」
薬研の問いに書状をひらひらさせながら、鶴丸は腰を下ろした。
「ひとりで何処に」
「気持ちはわかるけどね」
心配そうな声の燭台切にそう返したのは、初期刀である歌仙。
「昨年のあれを思い出せば、皆もわかるだろう?」
彼の言葉に彼らが思い出すのは、昨年の冬の出来事。
「あれはなぁ……見ている方が辛かったからなぁ」
常に明るく振る舞っている鶴丸も、声を落とした。
昨年の冬、この本丸の主緋穂が病に倒れた。
数日間に及ぶ高熱に苦しむ彼女のことを誰もが心配したが、なかでも彼女と恋仲の数珠丸の心の揺れが激しかったのだ。
審神者の不調は刀剣男士たちにも影響を与えた。なんだか調子が悪いような気がするという程度の者から、熱を出した者まで状態は様々で。
それでも皆、一様に主のことを憂えていたのは言うまでもない。
伝染る可能性があるから離れていてくださいという緋穂の願いも無視して、数珠丸は彼女の傍に侍り、題目を上げ続けたのだ。
「恐らく数珠丸さんも、影響を受けていたと思うのだけれど」
「それよりも主、でしたね」
祈祷や状況確認のために緋穂の元を訪れた石切丸や太郎太刀も、その時の状況を見ていた。
「だから今年は早めに集まったんだろ、大将を『いんふるえんざ』から守るために」
「薬研の言う通りだ。とりあえずここにいるみんなの考えだけでも先に聞こうか」
鶴丸の言葉に皆、頷いて。
「まずは食事の――」
「免疫力を高めるために――」
緋穂の知らぬところで、話は進んでいくのであった。
* * *
秋の風が枝葉を揺らす音が、耳朶を刺激する。
それが大きくなればなるほど数珠丸の心に広がるのは、なんとも表し難い気持ち。
(私は……無力です……)
人の身を得た今、自分にできることは題目を上げて祈ることだけではないと、分かったはずなのに。
昨年の冬に彼女が伏せった時、自分は傍に侍っていることと題目を上げることしかできなかった。他にできたとすれば、吸飲みで水を飲ませたり、他の者が作ってくれた氷嚢を替えたり――そんな、箸にも棒にもかからぬ些事のみ。
(身延は雪の長く残る極寒の地でした。その地で齢五十を超えた主の傍にいたというのに、あの頃はこんな心配をしたことはなかった)
前の主が徒人(ただびと)ではなかったと言ってしまえば、それまでなのだが。
(人の身を得た意味を理解したというのに、あの時、前の主に侍っていることしかできなかった私と大差ない――)
南妙法蓮華経と祈ることが大切だ――その意識は数珠丸の根底にある。けれども人の身を得、手を伸ばせば届くところに相手がいるのならば、もっと違う形で力になれるはずだ――力になりたいと、そう願ってもいいのだと、思うようになっていた。
(それに……人の身を得た意味に気づかせてくれたのは、彼女ですから――)
だからこそ、だからこそだ。昨年のような歯痒い思いをしたくないと、男士たちの対策会議に参加することを決めたのに。
それすら待てずにひとりで飛び出してしまった――……。
(……不思議です。私の心に、こんなにも逸る想いがあるだなんて)
常に物事を一歩引いたところから、俯瞰して見ていた自覚はある。けれども彼女のこととなると、こんなにも、周りが見えなくなってしまうのだ。
(嗚呼――噫……)
自身に降りかかる法難は、とっくに覚悟している。前の主がそうであったように、幾たびの法難にも耐えて乗り越えてみせよう。けれどもそれが彼女を襲うのは、とても耐えられなくて。
互いの胸で花開いた想いを大切にしたいから。何よりも彼女を大切にしたいからこそ、ひとりで本丸を飛び出した。
なにかアテがあったわけではないからして、何処へ行くともなく彷徨うことになってしまったけれど。
彼女の不調が自身にどんな影響を及ぼしても、気にならない。ただ、彼女が苦しむのは――……。
「……?」
その時、無意識に唇を噛み締めた数珠丸の耳に飛び込んできたのは、争うような声と物音だった。
* * *
日が落ちるのがだいぶ早くなった。肌を撫でてゆく風が思いのほか冷たくて、緋穂はぶるっと身体を震わせた。
なにか羽織るのも忘れて、いつもの、巫女服をアレンジしたオリジナル装束のまま外に出た。身繕いをする暇すら惜しかったのだ。
(数珠丸さんっ……どうか、ご不無事でっ……)
本丸の表門に立つ緋穂は、胸元で手を合わせて祈る。
この本丸は彼女の霊力で結界を張っているがゆえに、出入りがあれば室内にいてもある程度は感知することができる。けれども部屋で待っているのはもどかしすぎて。いても立ってもいられなくて。
緋穂が報告を受けたのは、陽が落ちてからだった。陽が落ちても数珠丸が戻らないことを心配した鶴丸が、彼が外出から戻っていないことを報告したのだ。
(てっきり他の男士たちと一緒だと思っていたのに……)
彼が本丸を空けていることは彼女も気がついていたけれど。まさかひとりで出かけているとは思わなかった。
彼の実力を疑ってはいないけれど、それと心配をしないのはイコールではない。
連絡もできない状況に陥っているのではないか――ああ、悪い方向ばかりに考えてしまう。
カタ……。
「!!」
小さな物音とともに、緋穂の感覚に引っかかった気配。それは――。
「おや、主……こんなところで――」
「――っ……数珠丸さんっ……!!」
紛れもなく彼のもの。緋穂は数珠丸の言葉をすべて聞き終わるより早く、彼の胸へと飛び込んだ。
「……そのような薄着では、風邪を――」
まるでそうすることが当然とでも言うように、数珠丸の腕は自然と彼女を包み込んだ。けれどもその腕に包まれる安堵よりも、鼻孔をついた鉄錆様の匂いに緋穂は顔を上げる。
「お怪我を? 何処かお怪我を……!?」
「安心してください、返り血です」
「争いになったのですか!?」
彼女を安心させようと紡いだ言葉が、逆に彼女を心配させてしまった。その黒曜石の瞳に溜まりかけている涙を見つめ、どうしたものかと惑ったその時。
「おかえりさん。ところで後ろのは、お客さんか?」
近づいてきたのは、彼女のストールを手にした鶴丸だ。彼の言葉に緋穂は、ゆっくりと数珠丸の後ろへと視線を向けた。
「……この方は?」
そこにいたのは、鱗に包まれた身体と嘴を持つ、三本足の生物。自然界の生物とは違うその容貌に、不思議と恐怖や嫌悪は沸かない。
「アマビエ様、です。良からぬ輩が捕獲をたくらんでしたところに出くわし、保護しました」
ペコリ……軽く頭を下げたアマビエは、なんだかまごまごしているように見える。
「アマビエか! 確か太郎太刀が調べた文献に載っていたな。まさか本物を連れてくるとは、こいつは驚きだぜ」
丁重にもてなそう――鶴丸はストールを数珠丸へと手渡して、アマビエを本丸内へと連れて行ってしまった。
数珠丸と緋穂にはそんなつもりはないだろうが、アマビエが、ふたりの世界を作り出している彼らの傍で惑っていたのを鶴丸は感じ取ったのだ。
「どうして、ひとりで……」
「昨年のようにあなたが苦しむ姿を、見たくなかったのです」
「だからって……数珠丸さんが傷ついたら、私だって……」
鶴丸の判断は正しいと言えよう。
本人たちに自覚がないとしても、この場にいれば自分が邪魔者ではないかと思ってしまう。
けれどもアマビエ様のおかげでこの冬、インフルエンザに罹る者が出なかったのは、言うまでもない。
(了)